レコーディング記

折角なので、ここに記しておきましょう。
個人的反省も添えて。


6月4日
"Soul River""ぼくのスウィング""Spanish Ecstasy"のドラム・ベースを録音。
"Shattered Love"も録音したが、納得が行かなかったのでボツに。
クリックのテンポを各曲のセクション毎に、必要に応じて変えるという手法を新鮮に感じた。
音楽的要求があればこれは進んでやるべきだし、往々にしてこの手法は理に適っていると思う。


5日
上記3曲のピアノを録音。
"Soul River"のピアノは中々のドライヴ感が出たように思う。自分のこの曲への愛情を強く感じた。
シンセパッドも併せて録音。
"ぼくのスウィング"はピアノソロに非常に苦戦。正直あまり納得のいくプレイはできないまま終わってしまった。
こうしたリズムが自分の体内にはあまり育まれていない、という事実を突きつけられる。
ストリングス・ピチカートをキーボードで入れるが、極めてキーボーディスト的なボイシングに明石さんが苦言。
結果、3つの音の間隔を広げた「ナチュラルな和音」に変更。
"Spanish Ecstasy"はクリックのテンポ変動に最初戸惑うも、どうにか録り終える。
イントロなど、ピアノが際立つ箇所でのダイナミクスのコントロールが課題として浮かび上がる。
ウォーリーズ・セッションのため僕は早引き。その後3曲のギター録りが完了。


11日
3曲の弦を録音。明石さんの用事のため夜19時すぎに終了。
僕はミドフェスのため、この日は全く出席できず。


14日
茶水のスタジオにおいて、残り曲のクリックだけを作る作業。
「3時間くらいでできるだろう」と言って実際に3時間で仕上げてしまう明石さんは凄い。


24日
ドラム・ベースの録音。
クリックを作っておいたのがよかったのか、
"Trust Your Groove" "Take Me To The Carnival" "Who Loves Rain" "Brazilian Sunset" "Flying Express II"の5曲を録り終える。
まだ時間があったので"霧時雨"を録音するも、クオリティの問題でボツに。
この日は少し余裕を持ってここで打ち切る。明石さんに「根性無し」と言われる。その後、「僕も根性無しなんだよ」と明石さん。


25日
"霧時雨"のドラム・ベースを録音。
その後は怒涛のピアノレコーディング。
"Trust Your Groove"は納得の出来。中間部の機械のような8分音符のアルペジオが求められる個所が心残りといえば心残り。
"Take Me To The Carnival"はテイクを重ねるごとに序々に雰囲気を掴み、テイク3がほぼそのままOKテイクに。
ライブと変わらないテンションでピアノを入れた。これでいい。はず。
"Flying Express II"ソロが速すぎてなかなかうまくいかないが、テイク2でそれなりのものができたのでソロはこれをOKテイクにする。その他の箇所はテイク2をもとにパンチインを数度施し完成。
この曲やカーニバルでは、自分の技術の限界にぶち当たった感がある。
"Brazilian Sunset"のピアノはすぐに終わった。
"霧時雨"のピアノの刻みは、クリックに合わせるべきかドラムに寄り添うべきか迷っていたが、
結局クリックに合わせての演奏に。地獄のような我慢大会。
その後ドラムとピアノが音楽的に絡む位置にくるように、文明の利器と明石さんの知恵が活躍するのでしょう。


ここでピアノは休憩。
"Brazilian Sunset""Take Me To The Carnival"のギターを録音。
なかなかカッティングのキレが増していて、気持ちいい。


最後に"Trust Your Groove"のシンセ回りを録音。

Pianism

久々に作曲をしてみた。といっても微々たる程度ですが。
透明な旋律が出来ました。序々に愛着が湧いてきて、そのうちひとつの曲として形になるのでしょう。


さて、最近のナイト・ミュージックにはこれが活躍しています。



現代ピアニストの奇才中の奇才、グレン・グールド
50歳くらいまで生きましたが、30歳あたりでコンサートからの「ドロップアウト」を宣言し、
その後の20年、ひたすらスタジオに籠ってCDを作り続けたというのはあまりにも有名な話だけど、
それではこの人のラスト・コンサートがどういった雰囲気だったのか?
というのはあまり知られていない気がする。


極めて普通だったそうです(笑)


逆に、あまりに普通だったから、聴衆はまさか今夜がグールドのラストコンサートになるとは思わなかっただろうし、
グールド自身も特にそういうつもりでコンサートをしたわけではなく、たまたまその日のコンサートがラストになってしまった、
ということなのでしょう。
グールド自身は若い頃から「(コンサートツアーに忙しい)今の生活をずっと続ける気はない」と公言してたらしいので、序々にコンサートを減らしていって、その日がはからずも最後のコンサートになってしまった…みたいな。

録音でうなり声が聞こえたり(キース・ジャレットほどではないけど笑)
ある楽曲を既存の解釈の2倍速のテンポで弾いてみたり
コンサートで椅子の高さ調整に1時間かけたり
そんなエピソードばかりを聞いていたので、ラストコンサートが普通だったというのは少し微笑ましい気がします。


上で紹介したCDですが、非常に不思議なピアノの音がします。
硬質ではなく、柔らかくもない。ではクセの無い音なのかというと、そうでもない。
何か圧倒的な力が音にあるのに、、、それが言葉でうまく表現できないのがもどかしい。
耽美的でもないし、あっさりでもない。
とにかく、絶妙なバランスで音楽が成り立っていると思います。


最近マーク・ロスコーという現代アメリカを代表する画家の絵画展に行ったんですが、
そのときに
「神聖な体験も、俗っぽい体験も、全部ここにあるよ」
というロスコーの自作(及び自作によって作られる空間)に対するコメントがありました。
グールドのブラームスを聴いてて何となくロスコーを思い出した。


ところで、最近の一番の驚きは、図書館ってこんな便利なヤツだったのか。ということです。

後悔

あぁ、この二年ほど全然勉強して来なかったなぁ、という後悔に駆られている。
自分の視線が音楽、もっと言えばピアノの技術向上(純粋なテクニックと、アンサンブルに関して)と作曲にしか向いていなかったから当然といえば当然なのだけど、
最近人に自分の音楽を説明する機会が多くなってきた、いう必要性と、少しはアカデミックでいたいというよくわからない日頃の意識のせい(おかげ)で、勉強してみようという気になっている。


といっても僕がフーコーハーバーマスを研究せずとも世界は平和に回るので、
音楽社会学とか、民族音楽、音響学、、、
そのあたりの本を読んで、咀嚼して意味のあることを語れるようになればいいなぁと思う。


つまり音楽に関してもっと造詣を深めたいという思いは、ずっと一貫しているわけです。2年前とはその表れ方が少し違ってきているということですね。
しかしなぜ長調が楽しい感じで、短調が悲しい感じなのか、なんてことを説明できる人はいるのだろうか。


バーンスタインか誰かが、
「長三度の崩壊により引き起こされた短三度が、人間の感情に渦を巻き起こし…」
なんてことを言ってた気もするけど、あっそう、という感じじゃないですか?


それでも幼児に「長調は楽しい感じで、短調は悲しい感じでしょう?」
と問いかけるピアノの先生と、それにきちんと納得して頷く小さな生徒、という構図は不変なわけで。


非言語性が占める部分が大きいが故に、言葉で語りたくなる。
そう思うと音楽評論家になる人の気持ちもわかる気がする。
きちんとした評論が、もっと世に出回るようになればいいし、自分もその一翼を担えるようになればいいなぁとも思うのですが。

柔軟でいること、いたいこと

三日間連続ライブ、そして今日はほぼ一日リハ、という地獄のような日々が終わり、また2日間ほどゆっくり過ごせる。
そんな貴重な休みに何をするかと言うと…作曲と練習ですね。笑
明日は夜まで何も予定がないので、久々に(?)夜更かしして、ゆっくりと鍵盤に向かって作曲していた。
といっても以前のアイディアたちを楽譜にする作業がほとんどでしたが。
最近は曲が全体の半分くらいしかできていなくても、とりあえず楽譜にしてみる。
そうすることで自分の曲という、実に客観視しにくいものを少しは冷静に眺められるような気がするので。


自分の曲が好きな人と、嫌いな人がいるそうだ。
僕は前者だけど、そう意識し始めたのは、レコーディングのときにエンジニアさんから
「自分の曲、好きでしょ?」と言われて、
「あぁ、好きですね」
とサラリと答えてしまってから。


僕は自分の曲=自分にとっての聖域、と思っているので、
他人に批評されたり、ここをああすれば、と言われたりするのがあまり得意でない。


ただ、常々恐ろしいと思っているのは、
自分がいい曲だ、と思って書き上げたものが
他人にとっても必ずいい曲であるかどうかはわからない、ということ。


これは当たり前のようでいて、自分にとっては、音楽をやる上で一番意識しなければならないほどに大事なことだと思っている。
人間、多かれ少なかれ、自分が「いい」と思うものは、他人にとっても「いい」のだという思い込みがあるようで、
なんであの曲の良さがわからない?あんなにいい曲なのに…
なんていう会話を耳にすると、発言者の気持ちにも共感しつつ、人間の思い込みというやつに一抹の悲しさも覚える。
もうこんな話はあの料理屋はおいしいよとか、あの先生はいい先生だよとか、いくらでも敷衍できる。
自分の感覚を信じるという、一見ただ賞賛されるべきスタンスは、一歩踏み外すとその本質を傲慢に変えてしまう。
そういう意味で、自分の書いた曲をいい曲だと思うことは、音楽家として必要なことだとは思いつつも、恐ろしいとも感じるのだ。


この歌はなぜ流行るのか?このデザインはなぜカッコいいのか?
プロフェッションとして何かに取り組む場合、自分の価値観を持ちつつも、他人の生み出す、同時代の先端に常に触れ続けて、また正しく評価できる(いや、もっといえばただ”楽しめる”)物差しを持ちたいと思う。
自分にわからないものを「わからない」で終わらせてしまうのは、人生の美しい部分を進んで切り捨てている気がするのです。
だから、難解なジャズでも、長いクラシックでも、世間から評価を受けているものは、とりあえず何回か聞いてみることにしている。
"Listen five times!"とはFred Herschの言葉。なるほど。until you can appreciate it, というところか。


また別のピアニストの言葉。
「音楽家の危険なところは、自分が音楽をわかっていると勘違いしてしまうところだ」
僕はここまで純粋な音楽家の境地には至れないな、きっと。

What is the meaning of "still"?

東京に戻ってきた。
バタバタと過ぎていく日々が一段落した。
実は最近、物思いに沈むこともままあるのだが、曲を書いていればユンケルを飲むよりは元気になる。


最近の自分の楽曲の特長として、ベースラインに対する異常なまでの拘りがある。
テクニカルな話になってしまうので、分かりやすく例えるなら、
ストレートに自分の気持ちを伝えるか?はたまた少し回りくどく伝えるか?
という状況で、後者の方法論を選んで曲を書いているということ。
"Still In The Mirror"という曲を、先ほどほぼ最後まで書き上げたが、
久しぶりに自分の安全圏から一歩抜け出た曲が書けたなぁ、という印象。
ライブで人気曲になるかどうか、とは何ら関係が無いのが辛いところだが。


そんな、世間に疑問を差し挟んでみたくなるような気持ちのときにはこのアルバムが最高。


RIVERMOUTH REVUE

RIVERMOUTH REVUE


こういうEgo-Wrappin'系の女性ボーカルは実はそんなに得意ではないのだけど、
個人的にはこのアルバムは名盤だと、今でも思っています。友達のコピーバンドでキーボードを弾いたという眩しい思い出も懐かしい。
楽曲がとにかくいいね。

In an effective way

お久しぶりです。


毎日が相変わらずせわしなく過ぎていく。
東京というのは時間の流れがどうも性急に感じられるという怖い街で、
ある意味それは楽なことでもあるのだが、自分の立ち位置をはっきり意識していないと、自分が何かから切り離されたような感覚に陥ってしまう。
Don't put off till tomorrow what you can do today.
という言葉は中高時代の僕の金科玉条(?)として机に貼られていたのだけど、
今の僕にこそこの言葉が必要なようだ。put offしまくりである。


久々に家でピアノの基礎フレーズを延々と繰り返すトレーニングをした。
ここ半月ほど純粋な楽器の演奏技術を磨く練習をしていなかったから予想はしていたけれど、
見事にヘタになっていた。
自分の指の筋肉は親指・人差し指・中指が発達している割に、薬指と小指が弱い。
その弱さに拍車がかかっていた。小学生でも上手い子なら僕より薬指・小指は動きそう。情けない話だ。


ジャズ・ピアノ界の至宝、ハンク・ジョーンズのインタビューに忘れられない言葉がある。
「80歳を超えても、毎日練習している。一日練習しなければ、自分にバレる。二日しなければ、嫁にバレる。三日しなければ、仕事が来ない。」


こういう発言を目にすると、やはり自分は純粋な演奏家には向いていないなぁという気もしてくる。
毎日練習とか、確実に狂ってしまう。
と書いていて思ったのだが、昔はむしろ毎日練習したくてたまらなかった。
旅行に行くと聞けば、その間ピアノが弾けなくて辛いなぁ…と思うほどだった。今は喜んで温泉に行きますけど。


最近の意識としては、そういう技術云々の話はひとまず置いといて、
人生における様々な経験を、自分なりに咀嚼しつつ、そういったものから浮き出てくるものを音として表現したいと思っている。
こう書くと楽器に実に習熟しているように聞こえるが、残念ながらそういうことではない。忍びねえ。構わんよ。ってね。
もういい大人と言えばいい大人の年齢になってしまったので、今まで培ってきたテクニックを土台に、表現できることを最も効率的に表現したいという思いが強くなっている。


世界で一番尊敬しているベーシスト、Kさんに初めて出会ったときに言われたのは
「音楽以外の時間を大切にしなさい」。
今になって、自分の心に重く響いてくる。
彼と、ミュージシャンの聖地で一緒に音を鳴らすことはできるのか?
あと1週間ほど、胃の痛い日々を過ごすことになりそうです。

Just

最近の僕、引きこもり。
引きこもることが幸せなのだ。
ロピアノのレコーディング、DAWソフトでのビートメイキング、ミキシング…
とにかく、俗世との交流を徹底遮断せんばかりの勢いで、自宅スタジオで至福の時を過ごしている。
あれ、音楽ってこんなに楽しかったっけ?

エレクトーンの最新機種の演奏を聴いて、鳥肌がおさまらないほどの感動を受けたのは12歳のころの話。
それから10年経った今、そのときと似たような、新鮮な感動を持って音楽に接している。

12歳のときの感動は、「何もわからないこその感動」
今の感動は、「音楽のシステムを多少理解したからこその感動」

特にこの感動は、この10年でレコーディングスタジオ並みのことを自宅で出来るようになったという技術進歩の恩恵によるものが非常に大きい。
また、色々な音楽をかじって、楽器演奏の技術を磨いて、シンセサイザーをいじって、MIDIに触れて、編曲を勉強して、作曲を始めて…なんて、音楽に関わる種々の作業を割とバランスよくやってきた自分をlucky manだと思う。もちろん好きだからこそやってきたわけだけど。
技術の進歩は、音楽をクリエイトすることに関しては、間違いなく莫大な寄与をしていると言っていい。
でも、それによって生まれてきた音楽をお金に変える方法(笑)については、まだまだ業界全体が(取り残されている、とまでは言わなくとも)暗中模索の状態なのだろう。

飼い主の怠慢により、今までそのポテンシャルを十分に発揮できていなかった機材が、やっとその真価を発揮している状況である。
どのシンセサイザーも嬉しそうな音色で鳴ってくれる。
一台でも機嫌を損ねないうちに、作れる音楽を作れるだけ。

このブログ限定のリミックスなんかを、こっそりアップしてもいいですね。