柔軟でいること、いたいこと

三日間連続ライブ、そして今日はほぼ一日リハ、という地獄のような日々が終わり、また2日間ほどゆっくり過ごせる。
そんな貴重な休みに何をするかと言うと…作曲と練習ですね。笑
明日は夜まで何も予定がないので、久々に(?)夜更かしして、ゆっくりと鍵盤に向かって作曲していた。
といっても以前のアイディアたちを楽譜にする作業がほとんどでしたが。
最近は曲が全体の半分くらいしかできていなくても、とりあえず楽譜にしてみる。
そうすることで自分の曲という、実に客観視しにくいものを少しは冷静に眺められるような気がするので。


自分の曲が好きな人と、嫌いな人がいるそうだ。
僕は前者だけど、そう意識し始めたのは、レコーディングのときにエンジニアさんから
「自分の曲、好きでしょ?」と言われて、
「あぁ、好きですね」
とサラリと答えてしまってから。


僕は自分の曲=自分にとっての聖域、と思っているので、
他人に批評されたり、ここをああすれば、と言われたりするのがあまり得意でない。


ただ、常々恐ろしいと思っているのは、
自分がいい曲だ、と思って書き上げたものが
他人にとっても必ずいい曲であるかどうかはわからない、ということ。


これは当たり前のようでいて、自分にとっては、音楽をやる上で一番意識しなければならないほどに大事なことだと思っている。
人間、多かれ少なかれ、自分が「いい」と思うものは、他人にとっても「いい」のだという思い込みがあるようで、
なんであの曲の良さがわからない?あんなにいい曲なのに…
なんていう会話を耳にすると、発言者の気持ちにも共感しつつ、人間の思い込みというやつに一抹の悲しさも覚える。
もうこんな話はあの料理屋はおいしいよとか、あの先生はいい先生だよとか、いくらでも敷衍できる。
自分の感覚を信じるという、一見ただ賞賛されるべきスタンスは、一歩踏み外すとその本質を傲慢に変えてしまう。
そういう意味で、自分の書いた曲をいい曲だと思うことは、音楽家として必要なことだとは思いつつも、恐ろしいとも感じるのだ。


この歌はなぜ流行るのか?このデザインはなぜカッコいいのか?
プロフェッションとして何かに取り組む場合、自分の価値観を持ちつつも、他人の生み出す、同時代の先端に常に触れ続けて、また正しく評価できる(いや、もっといえばただ”楽しめる”)物差しを持ちたいと思う。
自分にわからないものを「わからない」で終わらせてしまうのは、人生の美しい部分を進んで切り捨てている気がするのです。
だから、難解なジャズでも、長いクラシックでも、世間から評価を受けているものは、とりあえず何回か聞いてみることにしている。
"Listen five times!"とはFred Herschの言葉。なるほど。until you can appreciate it, というところか。


また別のピアニストの言葉。
「音楽家の危険なところは、自分が音楽をわかっていると勘違いしてしまうところだ」
僕はここまで純粋な音楽家の境地には至れないな、きっと。