あぜ道

久々に実家より。祖母の四十九日で束の間の帰省。
空気が綺麗だと、頭もはっきりとする気がします。

自分の近しい人が死ぬ、という経験をこの歳になるまでしてこなかったから、
死についてそこまでリアルに考えることが無かった。
祖母の死は、自分にとって、最も大切な人を失ったという表面と、
死というものについて真剣に考えるようになったという側面を持ち合わせている。

結局のところ、生命が燃え尽きた後どうなるかなんて、自分が燃え尽きてみないとわからない。
故人が空から見守っていてくれるかどうかなんてわからない。
しかし、自分を含めた大多数の人間は、故人の思い出と、与えられた愛情、そして与えた愛情と共に、残された人生を歩んでいく。
自分の大切な人を失うことに関して、客観的な視点を持ち出すのは難しい。
人間というものの脆さと、一抹の愛しさを感じずにはいられない。


法要を終えた後、親戚のチビたちにせがまれて、実家の階段下の公園でしばし戯れる。
ブランコが無くなっていることに気づく。
生えていた木が無くなっていることに気づく。
自分の体力も無くなっていることに気づく。


深夜、祖母の仏壇の前に座っていると、美しい旋律が浮かんできた。
祖母からのプレゼントだろうか。祖母へのプレゼントだろうか。

Wired

諸事情により渋谷で時間を潰している。この記事は渋谷のwired cafeからお届けしています。
関係ないけど"Wired"というとJeff Beckのアルバムがとても有名ですよね。

Wired

Wired

でも僕は"Wired"より、"Blow By Blow"のほうがお気に入りである。

Blow By Blow

Blow By Blow

このアルバムの冒頭に収録されている"You know what I mean"の邦訳タイトルが"わかってくれるかい"となっていて、未だに好きな邦題のひとつ。
このアルバムの音楽性とか、Jeff Beckというギタリストのキャラクターに絶妙に歩み寄っている気がしませんか?
もしかすると「お前らにわかってたまるか!」という気持ちでギターを弾いているのかも知れないけれど。
"She's A Woman"なんて、今聴くと最高に美しい。

中学時代に購入して、1度聴いて「つまんねーなぁ」と思っていたアルバムが、22歳になってやっと自分なりにappreciateできるようになるのだから、やはり音楽鑑賞というのは一種の忍耐を求められるものだなぁと感じる。

クラブにおけるDJも、忍耐をわかっているDJとそうでないDJとの間で、選曲とか空間の作り方には顕著に差が出てくるものだ。
思うに、クラブミュージックというのは「ループ」という概念が、ひとつの美徳になっている。

恐らくごくごく一般的な音楽リスナーからすれば、クラブという空間は、なかなか理解しがたいものであると思う。

・深夜〜朝にパーティーが開かれることが多い
・その間、ひたすら重低音の効いたビートが鳴り続けている
・単調なリズムやベースパターンがひたすらに続き(「ループ」)、そこから新しい展開に繋がれたときに、客から歓声が起こる

こうした要因が大きいのだろうが、あの「ループ」はただ音に身を委ねる、という感覚を不健全に、そして快楽的に体験するには最も手っ取り早い方法だ。
ループに身を委ね、踊る。忍耐、忍耐、まだ忍耐…そしてようやく次の曲へ。
この瞬間、それまで脳内でくすぶっていた快楽物質がようやく行き場を見つけるということになり、大歓声が起こる。僕はクラブにおけるあの一見異常な光景を、こういう風に理解している。


自分の場合、中学・高校時代にジャズを聴いて「最高だ!」と思い、
(ほんとはそう「思わざるを得なかった」外的要因も少なからずあるのだが。これについてはまた後々。)
大学生になって、やっと若者が聴くような(笑)J-POPやクラブミュージックを好んで聴くようになった。
ジャズという音楽は、最も健全な忍耐を必要とする音楽の一つだと今でも思っている。"Club Jazz"いうジャンルは、クラブ的な忍耐(不健全な忍耐)とジャズ的な忍耐(健全な忍耐)を、巧妙にそのポップな音楽性の中に隠して、一ジャンルとしての確立にまで至った。
フュージョンとクラブジャズにも音楽的共通点はあるけれど、現代において、マーケット的な意味ではクラブジャズに軍配が挙がった。*1
後者には、こうした十分な存在意義があったからではないか?
そんなことをぼんやりと考えている。


とあるピアニストから、「人間の音楽的嗜好な15歳前後のころに形成される」という話を聞いたことがあるが、この話が真であったとしても、少なくとも自分はその時期に嗜好が形成された後も、拡大していく一方である。

自分が10年後、どんな音楽を聴いているのか?と想像してみるのはなかなか難しい。

*1:個人的には、フュージョンもまた日の目を見ることは出来るんじゃないか?と思っている。

眠れない夜に

どうしてこんなに眠くならないのか?
――日々の生活の賜物である。


高校時代、ピアノの師匠から、レッスン中に
「深夜に作曲をするってのは、すごくいいことなのよ。深夜2時、3時あたりが一番宇宙からの電波を受け取りやすいから」
と真顔で言われたことがある。

当時はこの言葉が若干宗教的な意味合いを帯びているように感じられて、不思議な気持ちで聞いていたのだが、
大学に入り、いざ自分が作曲をするようになると、この言葉は実に重みのあるものとして自分の前に現れてきた。

作曲というのは自分が感動した音楽のre-productionである。
作曲というのは宇宙の電波を受け取り、それを五線譜に書き写すことである。
どちらも正解だけど、後者の方がカッコいいじゃないか。


実際、深夜という環境は(少なくとも僕と師匠にとっては)作曲に適していたのだろう。
独り、音のない夜のしじまに身を置き、鍵盤を叩く。


どうしてこんなに眠くならないのか?
――宇宙からの電波を傍受するためである。

というのが本当は正しいのかも知れないが、友人が減りそうなのでやはり冒頭のように答えるのが世界の選択なのだ。

作曲と時間

作曲というのは不思議なもので、かけた時間と成果が実に釣り合いがとれない。
正確に言うと、釣り合いがとれないことが殆どだ。

たまに高名な作曲家が
「いい曲ってのはね、すぐに出来るもんなんですよ。閃いたみたいにね」
なんて類の発言をしているのを目にするが、
絶対このオッサンかっこつけとるだけやないか、と思うこともしばしば。
もしかすると本当に世の中にはそういう人種がいるのかも知れないとは思うが、
悔しいので「ええかっこしい」だと思い込むことにしている。
でも、私見に過ぎないけれど、短い時間でいい曲が出来ることもあるし、はたまた長い時間でいい曲が出来ることもある。
そう考えるのって割と自然じゃないですか?

個人的な話をすると、すぐに出来た曲と、苦労して書いた曲というのはどうも自分の中の違う「何か」が表出しているように感じる。
すぐに出来た曲というのは、バラードにしろファストチューンにしろ、どうも感情が先立って聞こえてくるので、少し恥ずかしく感じることもある。でもそういう曲は、やはり自分を助けてくれるし、家で一人でいるときに演奏したくなることも多い。
時間をかけた曲は、一聴すると個人的な感情が強く投影されているようで、実はもう少し一般的な色彩を帯びた「何か」がその内に潜んでいる。でもそれは、実は間違いなく僕の個人的な「何か」なのだけれど。
ちなみに僕の曲で言うなら前者のタイプは"C'est la vie" "Shattered Love" "あぜ道"
後者は"Spanish Ecstasy" "Have A Nice Flight!"といったところです。
こういう話は言語化が難しいので、何となく感じてもらえれば良いです。笑

どういう形で出来たにせよ、それぞれの曲に思い入れがあるってのは勿論変わらない。
あ、でもそんなに長い時間もかからず、かといってすぐに出来たってわけでもない曲というのはあまり作曲当時の記憶がなかったりするので、思い入れは少し小さくなるのかもしれない。
楽曲としてのバランス性というか、そういうものには富んでるものが多い気するのでライブでは重宝するのだが。
"Take Me To The Party"とかね。
作曲にかかった時間と、その曲の特徴なんかをリストアップして俯瞰してみるのもなかなか面白そうである。


こんな旋律良く思いついたな、こんなコード進行よく思いついたな、ということは昔書いた曲を眺めてよく思うこと。
ある種の自画自賛だけど、現在の自分への警鐘も含んでいるので、健康的なことではないかとも思う。
時間をかけて生まれたものもあれば、ふっと何かが降りてきたように生まれたものもある。
それぞれの音楽的な出来はバラツキがある。
やはり時間と作曲の不均衡は、憎たらしいほどにはっきりしている。
でも、そういうところに惹かれて作曲をしているのかも知れないと思う。

Yoga

実に…実にお久しぶりです、はてなブログ
こうした公開ブログ、一つやってるにはやってるけれど、
あそこは文体、内容なんかが割と制限されてしまうから。笑
音楽であれ文章であれ、書くことが好きらしい。

昔書いていたはてなブログは2006年の5月からまともに更新しておらず、完全に野放し状態だったのだが、
改めて先ほど読み返してみて、自分が実に愚かで、平和で、愛おしい生活を送っていたことを認識し、なんとも言えない気持ちになった。

当時は用賀に住んでいた。
上野に引っ越してからというもの、用賀には一度も足を運んでいないが、先日車で神奈川のスタジオに行ったときに用賀を通って、これまたなんとも言えない気持ちになった。
別にネガティブな意味ではなく、あのとき自分は何を考えていたんだろうと思う。
僕は自分であれ他人であれ、「何を考えていたんだろうと考えること」が割と好きだ。悪趣味かも知れないですけど。


用賀という街には、およそ一人暮らしの学生が求めるようなものは何も無かった。
大学の友達だって誰一人住んでなかった。
でもあの街の落ち着いた雰囲気が大好きだったし、用賀駅からマンションまでの道のり――レオパレスのスタッフには徒歩12分と言われておきながら、ゆうに20分はかかっていた――も今思えば全然嫌じゃなかった。
将来用賀に住みたいと結構真面目に思ったこともある。
慣れない一人暮らしにはそぐわないような環境の街だったから、逆にいろいろと印象的だったのかも知れない。

大学に入って最初の一ヶ月は仙川に住んでいたが、
昨年ふらっと仙川に行き、何をするともなく一日ぼんやり過ごしたことがある。
こういうときって、本当に幸せだ。
趣味を聞かれたとき、音楽は少なくとも現時点では趣味とは言えないので、散歩と答えることにしているが、
何も予定のない日に、自分がはっきりと意識できる大切な場所に行き、はっきりと意識しないでその町並みを歩くというのが僕の理想的な散歩。